八女の豪族 磐井を描く
郷土出身の 井上自助画伯
六世紀初め、九州一円を支配していたといわれる八女の豪族•筑紫君磐井 (つくしのきみいわい )とは、どんな頑だちの人物だったのか。八女市出身の創元会画家、昭和大学教授•井上自助さん(67)=東京都練馬区中村南2-13-10=が、同市の委託を受けて磐井一族の姿を百五十号の大作に描き上げた。作品は既に、市に送られており、市制二十五周年を記念して建設中の市総合体育館の完成を待って、館内に飾られる。そこで一般公開に先立って、井上さんに磐井像感と作品完成までの苦心談を語ってもらった。
古事記の下巻『継體天皇』の項に次のような 一文がみえる。<この御世に (継體天皇 )筑紫の君石井、天皇の命に従はすして禮 (あや)無きこと多かりき。かれ物部 (もののべ)の荒甲 (あらかい )の大連 (おおむらじ)、大伴の金村の連二人を遣(つか)はして、石井を殺らしめたまひき >石井(磐井のこと)は天皇の新羅 (朝鮮半島)侵攻の命令に従わなかったため、528年、物部荒甲の軍勢に討たれてこの世を去った。
単独で物部軍を迎え撃つ、
『磐井は中央で権力を握っていた大伴と物部が、新羅から賄賂 (わいろ )を受けているのを知っていたから、いまさら新羅侵攻とは何事だと、反対したのだろう。磐井追討にやってきた物部軍を、三井、久留米で迎え撃った時は、味方である宗像水軍にも援軍を頼ます、単独で戦って敗れている。犠牲を少なくしょうという配慮だったと思う』 古事記や日本書紀の研究を通じて、井上さんのイメージの中に生まれた磐井は『高い次元の知識人で、反骨というより、筋を通すことに徹した人。尊敬に値する人物』なのだ。
時代考証に自信
磐井の墓は、八女市吉由の岩戸山古墳だと推定されている。長さ125メートルという最大級の前方後円墳で、後円部に続いて、裁判など儀式を行う場所とみられる別区がつくられた日本では珍しい形式の古墳だ。ここには阿蘇熔岩でつくられた石人や石馬が並べられているのも特徴となっている。井上さんの作品は、この自らの墓の建築の進みぐあいを視察するある日の磐井一族のなごやかな姿がテ—マである。
筑後の空と矢部川と
時は朝。陽光豊かな筑後の空をバックに、画面左に遠く青くかすむ鳶形山 (とびかだやま )が横たわり、そのすそから矢部川が曲折してくる。そして九分通り完成した後円部と別区では河原石を積む人、石人や石馬を刻む人々の姿が十人ほど。磐井とその家族たちは、古墳を見下ろす小高い丘に馬で乗りつけ、何やら語り合っている。 一家は、左から、手をかざして遠くを見つめる磐井の妻、正面を向く磐井、父の顔を見上げる息子の葛子 (かづらこ )その様子を後ろに控えて見守る葛子の妻の四人だ。
昭和54年10月4日 西日本新聞夕刊